人生で起きたことを自分のせいにしなくていい。
楽に、楽に、生きていこう。
スピリチュアル界ではそういう考え方?教え?アドバイス?もありますよね。
そういった方向性に多くの人が共感しているということは
今それだけ人生に疲れて、不安に思い、助けを求めている人が多いのだと思います。
どうにもならないとき、自分を破壊するよりは逃げて体勢を整えたほうがマシだよ!という話には、私も大きく共感するのですが
ただ、気になる事。
それは、「自分のせいではないよ」というのは答えのようでいて
結局、答えではないんじゃないじゃないかな、ということなんです。
自分のせいではないから逃げよう!というアドバイスの通りに全力で逃げたとします。
でも、その後も人生は変わらずそこにあって、幸運にも、残酷にも、続いていきます。
死ぬまで、もしくは、魂より大きなレベルで考えれば死んだあとにも
何かしらの旅は続いていくのです。
自分のせいではないよ、という言葉にどこか安心する気持ちが沸くのだとしたら。
また逆に、全部自分のせいなんだよ、という言葉に猛烈に反発したい気持ちがわくのだとしたら。
それは、強くて根深い被害者意識が根底にあるためで
被害者と加害者が、つまり一方的に奪うものと一方的に奪われる者とがひしめきあった世界に生きていると、自分を定義づけてしまっているということなのだと思います。
逃げて逃げて逃げて、逃げたと思ったのに、ほとぼりがさめたらすぐ同じような苦しみに追いつかれている人を、私はすぐそばで、しかも長年に渡って見てきたので
とりあえず逃げる、それはいいけれど、逃げることは最終的な救いにはならないんだよな、つまり最終的な答えではないんだよな、という人生の仕組みに気づかざるをえませんでした。
私は、自分の人生は自分のせいだと思っています。
自分の「せい」、という表現の仕方しかないために
拒否反応を起こしてしまう人がいるのかなとも思うのですが
今のところそれ以外しっくりくる説明がないので、自分の「せい」でいきます。
自分のせい
自分のせいじゃない
それは同列に語れる対立意見にみえて、実際のところ同じには語れないものです。
自分のせい は答えですが、
自分のせいじゃない は答えではなく、応急処置的な対処法を教えているものだからです。
私も、自分のせいじゃない、それこそが答えなんじゃないか、と結論をだしたこともありました。
けれどすぐに壁にぶちあたりました。逃げてもすぐに次が来る。
(毎回鬼がきたぞ!ぐらいの勢いで言っていますが本当にそうなんです笑)
「次」が全くあたらしい何かだったらよかったけれど
なんでかそれは、逃げてきたものとそっくりでした。
私自身も、上で書いたように逃げては追いつかれるを延々繰り返していた人も
「自分のせいじゃない」という逃避を現実(人生)が許してくれないかのようでした。
また皆さんはこんな思いを感じたことがないでしょうか?
ある人と5年ぶりにあって話をしました。
でもあれ?この人5年前と全く同じことをいっている?
それは特に、誰かや何かを批判したり攻撃する時が顕著で
5年前と同じ切り口、同じ思考回路で話しているんです。
この人はいったい5年間何をしてきたんだろう?
私は5年前とは全く違う色をした世界観の中で生きています。
久しぶりにあった友人と、思い出話以外では話が合わないことも多いです。
それは、私が変化したためか、友人が変化したためか
もしくは友人が変わらずにいたためなのかわかりませんが
そういう時にはちょっとの寂しさと共に、嬉しさを感じます。
5年前と同じように世界を見、同じように話す人。
私が知る限り、その人たちの中には自分以外の全てに対する侮りと強い拒絶があります。
沢山勉強をしていたとしても、体験を積んでいたとしても
自分の価値観をけして壊そうとはしないので
同じ思考回路で処理された知識だけが増えていき
理解できない、というカテゴライズされたものからは全力で逃げるのです。
そんな人は、身体だけがタイムスリップしてきたかのように
同じような話しかできないのです。
ここで少し話を壮大にしますね。
現実って酷い。
人生っていじわる。
それなのに、どうして私は生まれて来たんでしょうか?
前世が存在し、人としての生き死にを繰り返してきたのなら、また同じように苦しむことがわかりきっていたはずなのに、どうして私は性懲りもなく生まれてくることを選択したんでしょうか?
ある意味で私は神で、神が私なのだとしたら、どうしてわざわざまた生まれなおしたの?
あ、
そうか、
やりたかったからだ。
この苦しみがあることを知ったうえで、それが心底やりたかったから私はわざわざ生まれてきたんだと、私は思いました。
神様のままでいることをやめて、自分様に生まれてもだえ苦しむことを選ぶ私たちって、ほんと、頭がおかしいですよね。
そして、生まれてくる、という究極的な道筋を自分自身で選んだのなら、そこで起きるすべてのことは私が私のために望んだことでしか出来ていない。
そのほうが、考え方としても、とてもとても自然だと思いました。
でも、せっかく生まれたのなら、同じような苦しみをバカのひとつ覚えみたいに繰り返すばっかりじゃなくて、全く違う苦しみとか、新しい喜びとか、とにかく今までにないものを、人生の時間いっぱいを使って、体験したいはずだと思うんですよ。
だから、私たちは何とかして、同じ形をした苦しみのループから脱出していかなければならない。
だけどそれは、決して逃げる事では解決せず、また誰かのせいにすることではループを壊せないということが、私は自分の経験と、長年見てきた人の姿からわかってきたんです。
そんな時にどーーんと言われたのが、
「人生は全部自分がつくっている」「人生は自作自演」ということでした。
厳しい。厳しすぎる。
いや、だって、あの人とかこの人とか、今まさに酷いことしてくる人たち皆が私のせいとか、そんなの、思いたくないし思えないよー。
でも、このことについて、今の私がふたつだけ確かだと思える事は、さっきの、逃げても逃げても追いつかれるという仕組みと、
私の人生が「自分のせい」で出来ておらず、誰かのせいで出来ていて、本当にただただ楽に楽になることが目的だったのなら、そもそも、生まれてくることを選ばなかったと思う、という確信でした。
私は今、少しずつ、人生は自分でつくっている、自分なんだ!自分のせいなんだ!という確信を深めています。
そのことに対する息苦しさや嫌悪、罪悪感などを感じてしまう原因
(主にインチャです、インチャ手強いっ!)を解消することを続けています。
そうしていくなかで結果とても楽になる、生きるということが非常に楽に感じてくる
という現象が起きています。
楽になりたい!
だから無理やりにでも楽だと思おう!楽になる為に逃げよう!
多分これは目的と手段がめちゃくちゃになってしまっているんです。
楽になるのは結果であって、目的じゃだめなんです。
私が最近、自分、自分としつこくうるさいのは
人のせいにして生きる人生は、エネルギーを温存しているかようにみえて
実は大量のエネルギーを浪費している事に気がついたからです。
なので宇宙、神様など誰のせいでもない、自分様の責任で人生を体験していきます\(^^)/