特殊な呼吸法を使い、思考の限界を超えた無我の境地にどんな人でも行かせる、というセッションを長年ずっとやっている方が言うには
無我の境地にいたってもなお残る己、というのは
映画の主人公でもなく、
映画を観ている観客でもない。
後方から全てをただ淡々と観ているだけの映写技師だと言っていた。
私は実際にセッションを受ける中で
何度目かに、「これが無我の境地か」という体験をした。
呼吸にずっと集中しているといつしか身体の輪郭がなくなり
身体は、気と熱が流動している薄いスマホのような板が、床の数センチ上に漂うだけ、そんなものにしか感じられなくなって、
さらに呼吸を続けていくと「私」を「私」だと認識しているもののまわりを
丸い水滴が枝垂桜の花のように無数についているものがざわざわざわと、ゆっくり揺れながら漂うさまがみえ
その水滴を覗き込んでみると、中にはひとつひとつに全て自分の感情、喜びも悲しみも妬みも全てが入っていた。
水滴は漂い、周囲を回転していてひとときも留まることはなく、
そしてそれらをぱっ、ぱっ、ぱっ、と瞬きをするように選択しながらみている小さな自分がおり
そのさらに上に、ただただ、全体を見下ろしている、感動も思考もなくただただ「みている」存在がいて
それこそが映写機技師の己、無我の己なのだと感じた。
その体験をするまで、感情や思いには全て意味があり、それこそが人生だと思っていたから、無の領域をみて絶望した。
本当の無我の境地とは、なにもないということ。
全ての感情、痛みなども自分のまわりで風が吹いている様に
全てがいずれは過ぎ去っていってしまう。
過ぎ去るものに意味はなく、全てははじめから自分の中にあるのだと気づいた。
どんなときも何も欠けてない丸い自分がいて
月の満ち欠けのように光の当たり方によって自分が変化している様に感じているだけ。
それがあるがままな、今ここにいるということ。