思考と感情はセットだという強い思い込みが、多くの人の中にあるのだと思います。
例えば怒り。
教育でもしつけでも、怒りに冷静に対処させようとする大人達から「どうして怒っているの?」と尋ねられるので、私たちは「どうしてなんだろう?」と理由を探す、つまり思考と関連づける事が習慣になっていきます。
あなたが何かにムカッときたとき、頭の中に浮かぶのは「あーーっムカッと来た!」という短文ではなく、「あれがこれでそれがあれで…だから私はムカッと来たのよ!」という長文が自然と出来上がっているのではないでしょうか。
感情と思考をセットで扱おうとすること。それは理性的で社会的な人間を育てることに繋がり、相手と一緒に何かを成し遂げたり改善したりしなければならない場面ではその説明が相互理解のために必要不可欠であると思います。
しかし、それが上手くなればなるほど、感情というエネルギーをそのまま感じ切る事からはどんどん遠くなっていきます。
例えば赤ちゃんがおしめの中でウンチをしてしまって
「お尻が凄く気持ち悪い!誰か助けて!」と泣いている時、
そこでもし大人的な思考(マインド)が働いたとしたら
「ぼくのお尻にびっくりする程べちゃっとしたウンチがついてしまったのは、よく考えてみると、ママがぼくに適量じゃない多めのご飯を食べさせてお腹が緩くなったからだし、ウンチが今にもお股の方にはみ出そうになっていて非常に気持ち悪いのは、ママがぼくにサイズ違いのおむつを履かせているからじゃないか。これは全部、ママのせいだと思う!酷い!」というように
その子が身体を震わせて泣いた時に湧き上がった感情と欲求(本当に望んでいたこと)とは違うことが思考によって形作られてしまいます。
赤ちゃんはただ気持ち悪さにびっくりして、凄く嫌な感じがして、誰でもいいから助けて欲しかっただけ。
怒りという感情の本当の理由、本当に欲しかったもの、欲求が単純なのは、赤ちゃんが幼いからとか社会的経験に乏しいからではなくて、
怒りや悲しみは大人になっても解きほぐせばすごく単純な「びっくりした」「怖かった」「悲しかった」等ただただそれだけのことなんだよなぁと、私はこの頃思っています。
感情エネルギーに思考を使って「あれはこれでそれはあれ」という外枠をつくってしまうと、本当の欲求を見失うばかりではなく、エネルギーが一度凪いだ後も、外枠だけが焼き付いて残り、ちょっとしたきっかけで同じところを駆け巡る回路の様な役割をしてしまいます。
外枠を崩してありのままの感情エネルギーを感じられる様になるためには、
思考から感情を自由にしてやり、単純化(赤ちゃんのように)することが大切です。
思考で創っている枠が強固であればあるほど思考にエネルギーが使われて、表面上は感情を消化し処理できたような感覚を得られますが、実際に感じた事、言いたい事からかけ離れてくために本当の脱力(感情エネルギーの健やかな消化)はもたらされません。
自分の感情をありのまま受け入れる事が苦手な人は、感情を受け入れると自分が崩壊してしまうかもしれないという恐怖、羞恥心があるのだとおもいますが、
私の体験が保証します!大丈夫!
人間は意外と壊れないし、変わらないし、何より、エネルギーは常に動き続けているものだから、同じところに留まる事はないのです。
感情エネルギーの健やかな消化を行う準備が出来ていれば、怒りも、お腹の真ん中で湧き上がった力がぐるぐる上昇し、心臓をかすめながら頭の方にどーーっと抜けていく、ただそれだけの現象なのです。その後には、本当に大事なものといらないものをシンプルにより分けられる、心地よく脱力した自分がいるだけです。