自分の中で起こる反応を観察し続けることを続けています。
大きく激しく感情が動く時ほど自動反応がフル出動している時なので、
大きく動いた瞬間の自分の感情を観察することを心がけています\(^^)/
怒ったり悲しくなったりするのと同じように、喜んだり感動することも観察対象です。
感情が動くことがダメとかではなくて、また自分の自動反応を全てなくすとかを目指すのでもなくて、認識して、自分で選んだものだ。という風に、どんな瞬間も自分で選択したということをわかっていたいがための観察行為なんです。
「自分で選択したと認識する」ということは、私の人生を、私が望んだ、私が私のために用意した(選択した)機会であると認識することです。
とった、取られる。〇〇された、〇〇せねばならない。
もらった、あげた。〇〇してもらった、〇〇した。
どんな瞬間も感情が自分の中で過剰に反応した時は「本当にそうなのか?」という自分に対しての「?」出しを続けています。
自分に集中していると、他者の顔や仕草や声に感じるあれこれが、外から不意に来たものではなく自分のなかに元々沈んでいたものが特定の刺激をうけてムクっと起き上がってきているだけなんだなとわかります。
では、沈んでいた物は私自身なのだろうか?
がちゃっとした、ぐちゃっとした、時にほわわわとした、キラキラとした。
いやいや、「私」はそれを内包するもっと大枠のなにかです。
何かが起き上がっているのを何の感情も感想も持たず冷徹に見ているだけの私は常にいます。
つまり、沈んでいる物が起き上がる自動反応は私そのものではなく、あってもいいし、なくてもいいもので。
あることを私が選択しているから、いつまでもあるのですな。
あるもないも選択出来ることをいつまでもあるに偏らせていたいということに気づくと、
どうしようもないこと
ではなくて
どうでもよいことだったのだー!と納得出来るので、自分や自分以外の人に対して〇〇でなくてはならないとか、きっとこうに違いないとか、変な思い込みの介入現象も生まれにくくなります。
嫌いだなぁと思う人はどうしてもいるけど、嫌だなぁと思う出来事はどうしてもあるけども、その嫌いや嫌のなかに詰まったイガイガした何かは、その人やものが運んできたのではなく私の中に元から沈んでたものが起き上がっただけで、
その人や出来事に貴賎も正悪もないのです。
(物理的に、また執拗に精神的な攻撃をしてくる相手には観察ではなく闘争か逃走をすべきですけどね!笑)
どうでもいい、なにもない。
言葉にすると投げやりに、また無気力に聴こえてしまうかも。
だけど、投げやりに投げただけではすぐにそれは背中から追いついてきてどつかれる、それがTHE地球ルールなので、私が言いたいどうでもいいは、それに気づいてやっと、
私は私の選択で丁寧に我が人生を愛し、人を大切にすることが出来るようになってきた、そういう静かな私が静かにすくっと立ち上がる、そういうどうでもいいなのです。
感情を感じた体験は一瞬が本物で、それ以降は記憶をなぞるだけで、なぞればなぞるほど
本物とは別の何かに形が変わっていきます。
自分の口に飲み込んだものを吐いてまた飲み込むことを繰り返したり
自分の解釈という噛む行為と納得するために自分の唾液を混ぜて食べ物の消化の準備が整うように
最初に口に入れたものは自分という介入者が出し入れすればするほど全く別のものになるような感じがする。
肉体と時間に縛られた存在の私達は、時間がたつと体験したものにも歪曲、削除がおきます。
私は自分で自分の人生に感動するんだぜ。
今ここにあるとは、そういうことなんだと思う\(^^)/