人生の嫌な事から逃げて捕まるのか、逃げずに追いかけるのか

 

 

このところまた人生について、生まれた意味、

つまり自分がやりたいこととして握ってきた願いについてよく考えます。

自分の人生の総責任者は自分しかいないということも、改めて考えます。

私がいまの家庭環境でなく、今の、表向きの仕事に
関わるような家系に生まれていなかったとしたら。

考えずに済んだこと、みなくて済んだことが沢山あったと思います。

色とりどりの不幸を短期間で怒涛のように体験して、
〇〇でなかったら、というありもしない仮定に憑りつかれ
自分が可哀そうに思えてならない時期もありました。

しかし、現在。

私は、私の環境に生まれてきたからこそ、また人生の途中でしてきた
様々な選択や失敗があったからこそ見えている今の景色が最高で、

今の自分が自分史上最先端だと、思えています。

そうなれたのは、

起こったことから逃げてもいつか必ず捕まる、

だって起こったことは自分が望んでいたことでしかないから
という宇宙の法則に気づけたこと。

気づけたことで、問題に関わった自分の判断や行動が妥当だったのか、
自分で間違っていなかったと胸を張れるものだったのか
何度でも考え、言い訳せず、真正面から向き合う耐久性を
ひとつひとつ現実と向き合いながら作って来られたからだと思います。

〇〇でなかったら、という仮定に憑りつかれ続けたり、
誰かのせいにしたり、逆に誰かに任せて逃げ続けていたら
人生の中で向き合うタイミングから追いかけられ、
それすら周囲のせいにして逃げ続けていたかもしれない。

私や家族は人を雇用する立場で仕事をしていて、
辞めたいと思っても、移転したいと思っても
簡単には出来ない商売をしているので、

逃げないこと、については自然と鍛えられました。

というか、そもそも逃げられないので、
そこで生きる為には学ぶしかないという環境でした。

どこでも、雇われる側の立場の辛さがよく取りだたされていますが、
未熟ながら雇用主の立場を知る私からすれば、逃げること、
生きる場所を簡単に変えることが出来る人達にはわかってもらえない、
誰のせいにも出来ない重圧と、皆必死に戦って、
戦い抜いているから雇用主でい続けられているんだぜ、と思います。

責められてばかりで「まったく!やってやれないぜ!」と思うのと同時に、
私はこの面倒な立場でいるからこそわかることが出来る
様々な不幸を体験したくてここに生まれてきたんだ、と感じます。

人生の色とりどりの幸福を経験したいとおもえば
必ず同時に色とりどりの不幸を経験したいと思っている自分はワンセットです。

やっぱり生きるって絶望と希望の両方の世界にいる事だとおもうんです。
(清水友邦先生の「絶望と希望の世界を生きられるようになる」という表現をお借りしています。)

私はそう思います。

 

ABOUTこの記事をかいた人

精神世界の学びが大好きで、日々全力投球中! 自己認識研究オタクセラピスト。 精神、ボディ、みえないエネルギーのバランスを追及しています。