只管打坐
ただひたすら座禅すること。
道元禅師が残した言葉です。
今私は日々の瞑想で「する」を落としていく手法を実践しているんですが
座っているとマインドのお喋りがシーンとする瞬間があります。
私がこれまでやってきた瞑想の回数でいうと
イメージングを使ったもののほうがずっと多いはずなのですが
するを落とす瞑想はなんだかはじめからとてもしっくり来て
新しい何かではなくもとから知っていたもののような気がしています。
それは日本人の身体がなのか魂の部分なのかわかりませんが
ともかく、そうだよねって腹からの納得しか出てこない瞑想でした。
常に不安なマインドと身体がしんとする瞬間
「只管打坐」ただ座るということが今はとてもしっくりきています。
するを落としていく行為は閃き、気づき、ビジョンを追い求めず観察者の自分をただみるものです。
いまのところサボることなく毎日瞑想する時間を作り取り組めているんですが
継続して意識を向け続けることが信頼できるというか、続けることがすごく普通です。
なにが見えるわけでもなく閃きがあるわけでもないのですが、また座りたくなるのが不思議。
イメージを使った瞑想のなかでも
何かを得ようとしたり意図してつかもうとして行う瞑想は
継続するなかで成功体験と失敗体験的な浮き沈みが激しく、それに疲れてしまってずっとずっと続けるということが難しいところがあったので、その違いを面白く受け止めています。
時期や体調、意識状態の違いもひっくるめてただ「みる」こと、今はその瞬間の己をただみる。ということを続けています。