過剰な嫌い、好きという固執は同じもの

 

ひとりの人と愛し合うって素晴らしいことのように感じますよね。

私は、1人の人としっかりと向き合い愛し合うって素晴らしいことだと思っています。

 

けれどこの私の愛し方、実はただどんな色が好きかぐらいの話なんです。

どんなものに美しさを感じるか、「美徳」ですな。

ただこの世界で、在る。を感じるためのエネルギーの表現方法なだけ。

その表現を自分の美徳と照らし合わせて、いいね!と思う人もいればよくないね!と思う人もいる。それだけのことです。

 

〇〇してはいけない、せねばならないという思い込み満載の自分だけのローカルルールの存在に気づいて

それがわかった後で本当に自分がどうしたいか。を発掘する作業。

これまでのことは全て自分で選んできた。と認識した状態で、それでもなお静かに選択したいものとして

目の前に残った何かが「あなただけの美徳」なんじゃないかなぁ。

花の咲き具合は満開が好きな人もいれば、蕾、五分咲きがすきな人もいます。

愛についても、どんなものがいいかは自分の美しいと思う感覚の違いでしかない。

ひとりのひとを愛するってとっても素晴らしい気がしますが

ひとりのひとを拒絶するのとエネルギー的には同じです。(口酸っぱく書いてますが嫌いな人ほど自分の未消化の感情、影を投影しています。)

愛するも拒絶するもひとつのものに過剰に固執し執着しているのでエネルギー的には重い、振動数が低いです。

もちろん、重くて振動数が低いものが「悪い」んじゃありませんよ!

軽くて振動数高いのがいいものとか、愛といえば振動数が高いもの、という認識も、ローカルルールが発展しちゃっただけで。

この世に私達が認識できるようレベルの真の善悪はなく、自分の趣味嗜好のスコップでザックザク好き勝手にすくっては選り分けをしているのです。

 

私自身、パートナーに対して、運命だ!唯一無二!という感情を持ちがちですが

自動反応によりその興奮や状況をあえて選んでいるかもしれないという可能性に気づいてから

過剰に固執する気持ちやがっつりパートナーをグルグル巻きにしていた(笑)執着は不思議と薄れてきています。

特別!唯一無二!という方に思考が固まっている自分の反対側には、

ぞっとするくらい相手をどうでもいいと感じている、いや、感じてすらいないというほうが正しいかも、、。とにかくそういう自分がいました。

これは以前書いた大枠のほうの自分のことでもあり、もっと身近なところで、とてもじゃないが毎秒毎秒誰かのことを大事になんかできちゃいねぇ、相手のことなど全く意識に登らない時間は確実にある、という話でもあります。

「相手のことをどうでもいいと思っている自分。」

それを認めるのは相手を軽んじることになる気がしてだいぶ抵抗があったけど、のたうち回りながら飲み込んでみて、腑に落ちて、やっと、目が覚める感覚がありました。

目が覚めた状態の私は何でも出来る、選択できる私です。

そんな私で、本気で、丁寧に、相手を大切にしたいと思う事が出来る、

それは過剰な接待や関わりじゃなく、風通しのいい地に足をつけたパートナーシップなんだなと感じています。

あなたはわかってくれているハズ!という思い込み固執の重さがなくても、相手はどこかに飛んでいかないんですね!知らなかったよ!笑

 

「愛」って執着、固執と勘違いしてしまうことが多い言葉だなぁと感じています。

 

私にとって愛とは今のところ

「自分の趣味思考を超えた先で無条件で相手の在る」を認めること。

というのが一番しっくりくるかな。

変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。

 

一人でも成立する愛もあれば相手がいないと成立しない愛もある。

愛って言葉はよーく考えてみると不思議ですね。

ABOUTこの記事をかいた人

精神世界の学びが大好きで、日々全力投球中! 自己認識研究オタクセラピスト。 精神、ボディ、みえないエネルギーのバランスを追及しています。